■1 人としての基本を学んだ


地域社会から「嫁をもらうなら七福の娘を」という評判を得ている会社がある。七福醸造株式会社。白醤油を醸造・販売している会社だ。
七福醸造は、中国内モンゴル自治区の砂漠で植林活動、社員のみならず地域社会を巻き込んだトイレ掃除、週1回大学の先生の混声合唱指導を受け市民病院でのロビーコンサート、全国に広がったチャリティ100㎞ウォーク、被災地への救援活動などを行っている。
このように、社員ぐるみで社会貢献、徳積みをしている姿が紹介されることが多い会社だ。
社徳の高い会社がなぜ信頼と成功を勝ち得るのか。
ここでは同社を発展させた現会長犬塚敦典の行動を見ることで、七福醸造がどんな会社なのか、大ヒットした同社の商品がどのようにして誕生したのか、「三河湾チャリティー100㎞歩け歩け大会」を続けているのはなぜか、災害救援や地球環境保全に積極的に取り組むのはなぜかを見ていく。


◆親から教わった「人としての基本」


犬塚敦典の父・明元(あけもと)は1912年(大正元年)、愛知県西尾市で6人兄弟の5番目として生まれた。10歳のときに父親を亡くし、口減らしのため尋常小学校5年生のときに愛知県岡崎市の叔母の家に預けられた。
16歳のとき、愛知県半田市にあった飼料会社に丁稚奉公として入った。あまりの辛さに泣いて家に帰ったこともあったが兄に説得されて会社に戻ることが3、4回あった。毎年60人ほど入社し、1年後に残るのは2、3人だったことが丁稚奉公の厳しさを物語る。
しかし当時辛抱してがんばった人は、のちに独立して大手の漬物会社や飼料会社、製油会社などを創業し成功していることから、「我慢、忍耐、辛抱が大事」と明元は語っていたという。
母・キヨは13年、岡崎市で5男3女の3女として生まれた。独学で看護婦の資格を取り、名大病院に勤めているときに犬塚と見合い結婚し、同じ会社で働くようになった。
戦後、2人は同社を退職し、岡崎市近郊の愛知県額田郡幸田町でパンの製造業を始めた。パンづくり経験のあるキヨの弟を入れて姉弟3組の夫婦で始めた。キヨは名古屋で徹底的

にパンの製造を学び、パン屋は成功した。当時は食糧難だったから、毎日、店の前に長蛇の列ができた。
キヨはまた、考えるよりやってみる、すぐやらないと気に入らない性格だった。ただ、一途で正義感が強かったから、問題も起きた。それを丸く収めるのは、苦労人で、長年営業をやってきて人間が練れている父だった。
キヨのことで、敦典が今でもすごいと思うのは、「私心」「私欲」がなかったことだ。自分のことを考えず人のために尽くすキヨは、その人望から60歳のとき、婦人会の人たちや県会議員に担がれて、愛知県碧南市市議会議員選挙で当選。市民の幸せを願い、自分の目と足で確かめて前に進むという姿勢を貫き、4期16年務め、勲五等瑞宝章を受章した。
両親に共通していたのは「つましさ」だった。それは暮らし向きがよくなってからも変わらなかった。敦典は、父と母の後ろ姿から、我慢する、物を大事にする、物を分け合う、すぐやる、いい気にならない、といった「人としての基本」を学びとった。


◆少年期~不登校の青年期


敦典は41年、半田市に生まれ、4歳から9歳までを愛知県幸田町で過ごした。碧南市に引っ越して碧南市立新川中学校時代に、農業実習で稲藁を運ぶ作業があった。敦典少年は少し作業をさぼったことがあった。家に帰ってから、そのことを「楽してよかった」と得意そうに話したら、こっぴどく叱られた。
このとき、母の言った言葉が敦典少年の心に深く刻みつけられることとなった。
「要領よくやるのは悪いことだ。どんなときも陰ひなたなく一生懸命にやりなさい」
碧南市に転居したのは、小学校3年生のときだった。戦後の混乱期が終わって大手のパンメーカーが次々と操業を再開し始めたため、両親はパン屋に見切りをつけて、碧南市で白醤油業を始めた。
といっても、白醤油が売れるのは9月から12月までの4カ月の期間。後は売れないから、父と母は食べ盛りの4人の子供を抱えて苦労したのだろう。世の中は朝鮮戦争の特需、55年の『経済白書』の「もはや戦後ではない」などのように、高度経済成長時代の幕が上がろうとしていた。しかし犬塚家の台所は火の車だった。
59年の伊勢湾台風は死者・行方不明者が5101人、とくに伊勢湾沿岸は高潮による被害が甚大だった。犬塚家の家屋も全壊し、工場の瓦の3分の1が飛ばされたため、敦典少年は高校を休学したうえで片づけたり修繕したりした。
一カ月半後に復学したが、授業についていけなくなり、教室に座っているのが苦痛となり、登校拒否になった。
あるとき、担任の先生から、
「君の妹に兄さんの様子はどうだいと聞いたら、ワーッと泣き出して、駆けていったよ」
という話を聞いて、家族中が苦しんでいることを知った。極端に食べなくなった敦典を、父も母も心配していたのだろう。しかし、両親は忠告がましいことは言わず見守りつづけた。
ある日、尊敬する早川先生が自宅を訪問し、諭されて学校に戻り、なんとか高校を卒業することができた。後年、子供を持ってから、当時の親の気持ちがどれほどだったかと思い、「申し訳ないことをした。親孝行しよう」と強く思った。親不幸だったからよけいに親孝行しなければ、という思いが強まったのである。


◆東京で5年間〝よそ飯〟を食う


高校卒業後、敦典は父・明元の経営する七福醸造に入社し、2年間働いた。白醤油の醸造工程に配属された。当時はリフトなど買えないから、すべて人力での作業だ。
9月から12月の繁忙期は、朝早くから夜の8時までぶっ通しで働いた。日曜の夜中、京都から引き取りに来た車に四斗樽(72リットル)を27樽積み込む。週に1回は同い年の寺田治己さんと一斗ポリ(18リットル)120丁を2トントラックに積み込んだ。
3K(きつい・汚い・危険)の醤油業は募集しても人が集まらないからやるしかない。また、食べないと身体がもたないので、毎晩どんぶり飯を2杯平らげるほどだった。
2年たった年の成人式の日に、東京で大学生活を送っている友人たちが家に来て、「東京に来いよ」と敦典を誘った。父に相談すると、「よそ飯を食うのも修業になるからいいだろう」ということになり、母の親戚の商店を介して、東京の大きな酒問屋に入社することになった。
上京の目標は、できるだけ多くの体験をすることだったから仕事にも遊びにも熱中した。ところが1年近くたったとき、「こんなに遊んでいていいのか」と考え、夜間大学に行こうと思い立った。短期間で猛勉強し、明治大学商学部の夜間部に入学することができた。
このため、会社では内勤の仕事が主となった。新商品が出ると、電話で売り込む「新商品販売コンテスト」を企画したり、「セット商品の返品の大改革」を行ったりした。
この酒問屋に4年、その後の1年間は日本醸造工業㈱に実習生として入った。実習生の中には蔵元の子弟が何人もいた。北海道から来ていた工藤君と「俺たちは修業の身だから社員の倍働こう」と話し合って、ガンガン働いた。
社員は塩袋を1袋(30㎏)ずつ2階に運んでいたが、敦典たちは一度に2袋運ぶことにした。また、先輩社員が休んだときに大口の注文が入ったら、仕事を受けた。
一心不乱に働く敦典たちを見て、工場長たちはご機嫌で、勤続20年の社員のボーナスが5万円なのに敦典たちは4万円だった。しかも実習生でボーナスを支給されたのは初めてのことだという。それが我慢ならないといって会社を辞めた古参社員もいたほどだ。
実習生の最後は、醸造試験所で麹菌のつくり方を勉強し、その後5年ぶりに家に帰った。東京で「よそ飯」を食べた一番の収穫は、理不尽に叱られても我慢することを覚えたことだ。このことが後年、社長になってから役立つことになる。
帰郷したらすぐに家で働くつもりだったが、アメリカに夏季留学した大学時代の同級生から「アメリカは素晴らしい」と聞いて、「家で働きだしたら行けなくなる。行くなら今だ」と考え直した。思い切って「アメリカに行きたい」と母に話した。母は「ああ、いいじゃない。行ってらっしゃい」と。
不安を抱えたまま、辞書を片手に羽田からロサンゼルスに飛び立った。2カ月半の旅だったが、多くの失敗をした。だからこそ、ここで得た経験で度胸がついた。
その後、敦典は仕事と遊びで何度も海外に行くことになるが、劣等感を覚えたり、怖気づいたりすることはなかった。


■2「経営者失格」を思い知る

◆白醤油専業の七福醸造を創業


敦典の父と母がパン屋をやめて、新しい仕事を考えていた頃のことに話を戻す。何をしようかと思案しているとき、碧南市に住んでいた父の従兄弟の犬塚棟一から電話が入る。
「白醤油蔵が売りに出ているよ。資金は、無利子・無担保・無保証・無期限で出すよ」
ありがたい話だ。昔、棟一の先祖が父の先祖にお世話になったことから、その恩返しをしたいというのだ。後年、父は「受けた恩は決して忘れない。必ず事業を成功させる」と心に誓ったと、敦典に話したことがある。
白醤油蔵を買ったとき、先方から「七福」の商標をそのまま使ってほしいと頼まれ、よい商標なので引き継ぎ、社名も七福醸造とした。51年3月、資本金100万円(現在のお金で約3000万円)で七福醸造㈱を設立した。
会社を立ち上げたが、父は醸造について無知識・無経験だ。そこで、つてを頼って探し当てた醸造技師の永坂國松氏に協力をお願いすることにした。永坂氏は「二度と宮仕えはしない」と断ったが、父は兄の犬塚金一を伴って永坂を訪ね、三顧の礼をつくした。その甲斐あって、3年間だけ協力してもらえることになる。
約束の3年が経ち、もう少し続けてほしいとお願いしたが今度は駄目だった。永坂氏はそれから少しして亡くなった。3年間という短い期間だったが、しっかりと醤油づくりの「技と心」を敦典たちに伝えて旅立ったのだ。犬塚金一、犬塚棟一と永坂國松氏の三恩人の協力があって、七福醸造は醤油業の第一歩を踏み出せた。だからこの3人を七福醸造では「三恩人」と呼び、尊敬している。


◆業界の常識を次々と覆す


さて、白醤油は1889年、現在の碧南市山神町で、内藤弥作氏の手によって醸造され、「白たまり」として商品化されたのが始まりだ。七福醸造はこの地を引き継いでいる。
濃口醤油が小麦5に大豆5の比率でつくるのに対し、白醤油は小麦9に大豆1でつくるため、前者が赤茶色に対して後者は琥珀色をしている。白醤油は糖分が高くまろやかで、茶碗蒸しやお吸い物、おでんやうどんのつゆ、玉子焼きなど、素材の味や香り、色を生かすことができる。
今日では県外でも何社かで醸造販売されているが、七福醸造が創業した当時は珍しい醤油だった。その白醤油を永坂氏の指導のもとでつくり始めたわけだが、明元が素人だったことがかえって幸いし、醤油業界の常識を次々と破っていった。
たとえば機械濾過だ。当時は自然濾過が通常のやり方。とくに白醤油は機械で濾過すると旨みがなくなると業界の常識と思われていた。しかし試してみると、濁りが取れて透き通り、旨みも変わらない。
できた醤油を板前に味見をしてもらうと、「まったく変わらない。むしろ旨いね」と言う。うどん屋は「汁が透き通っているから、こっちのほうがいいね」と大好評。こうして七福醸造は、創業した翌年に機械濾過に切り替えた。
57年には「南川式簡易自動通風製麹装置」を導入した。昔は、木の箱のロジ(麹蓋)で小麦と大豆を蒸したものに種麹を付けて麹をつくっていたが、手間がかかり、終わった後のロジ洗いも大変なものだった。
そこで、醸造学者の南川紀敏氏の指導でやってみることにした。棚の上に金網を敷いて蒸した大豆と小麦をよく冷まして盛り込み、麹菌をまんべんなくふりまき、下からの風で温度を調節する。麹菌が増殖して固まるので、それをほぐすため、途中スコップで麹の手返しを4回行った。これも革新的だったから、全国から醤油屋が見学に来た。
このほか、浸漬した小麦・大豆を入れて蒸す円筒形の回転式蒸し釜の「NK缶」設備や「低温貯蔵タンク」も他社に先駆けて導入している。
敦典も87年に愛知県技術センターで、酒造用に開発された「深層発酵タンク」を白醤油醸造に使えるかテストしたところ、好結果が得られたので導入したことがある。これも業界初だ。後年、自動通風製麹装置を改良。錆びる心配がないという理由から室全体を総ステンレスに変えた。
これまでの慣習にとらわれず、進んで新しいことをしようとする進取の気性は、親譲りだろう。まさに「血は争えない」である。


◆不景気のなか、全国に売り込む


このように、醸造工程を革新しながら業績を伸ばしていったが、73年にオイルショックが起きた。モノ不足となり物価高となる。ちょうど製麹装置をオールステンレス化したときで工事のため仕込みができず、蔵は空っぽになった。
夏からフル稼動して、熟成した白醤油でタンクがすべて満杯になったとき、オイルショックが起きた。タイミングよくどんどん出荷できた。ところが、年末が近づくにつれて品薄になってしまった。
翌年になると、パタッと売れなくなった。「狂乱物価」といわれたインフレを鎮めるため、総需要抑制策が取られ、一気に不景気になった。このため返品の山ができた。銀行からお金を借りて給料を払う。原料を買って仕込む。しかし、入金はほとんどない。
こんな状態が7カ月続いたとき、銀行は七福醸造に相談なく保証人の伯父の犬塚金一の所に行って帳面を見せ、「毎月、出金だけある」と言ったという。金一は「いざというときには、財産分けのつもりでいる。この田地・田畑・屋敷・家屋をすべて計算して、この範囲内で貸してやってほしい」と言って七福醸造を励ました。敦典はこのときのことを、「今思い出しても涙が出てきます」と語る。
こうして運転資金はめどがついたわけだが、その頃の社員は行く先々で、「お前の会社、もう駄目らしいな」と言われ、しょげて帰ってくる日々だった。
売れないという状況は変わらない。そこで明元は、研究室所属だった敦典に「お前、自分で売りに行け」と命じた。営業は未経験だったので、義兄の南川一也営業部長に同行して営業のイロハを学んだ後、2カ月間、小売店を回ったが量がはけない。そこで、営業部長は西日本、敦典は東日本と担当地区を分け、白醤油を加工用として使うところを開拓することにした。
『食品年鑑』を買ってきて、漬物屋・総菜屋・玉子焼屋など白醤油を使いそうなところを選び、それを事務の女性社員に頼んでカードに書き写してもらい、県別・市別に分けてもらう。それを携えて、たとえば秋田市に行くと、前の晩にホテルで市街地図を見て回る順番を決め、翌朝8時に最初の店の前に立つ。
場数を踏むにつれて、買ってくれる店と買ってくれない店の違いがわかるようになり、セールストークも上達していった。敦典は、営業の仕事はおもしろいし、やりがいがあると思うようになった。訪問先で、
「月給いくらもらってる。倍出すからうちに来ないか」
と言われたことがあるぐらいだ。
「申し訳ありません。私、社長の息子です」
と言うと、大慌てだった。そんなことが3回あった。
この新規開拓で、休んだのは正月の3日間とお盆休みの1日だけ。半年したら、毎日1件は新規店から注文が入るようになり、1年目の売上げは前年対比で70%増、2年目は40%増を達成できた。


◆とうとう退職希望者が現れる


オイルショック後の74年から76年にかけて、人件費が急騰していった。醤油屋は人件費が安いから成り立っていたので、この3年間は赤字。77年になって定年過ぎの社員2名と新入社員2名に辞めてもらうことになった。
そのとき、退職金を払えないので、残った社員の冬のボーナスを充てたところ、「退職金が出るのなら自分も辞めたい」という社員が出てきた。「辞めるのは自由だけど、退職金はもう出ないよ」と言ったら留まったということもある。
しかし、退職願は経営者に対する不信任でもあるから、ショックだった。以後も、退職願いを持って来られると、ドキッとすることがある。社員解雇は二度としたくないと思った。そのために考えられることは全部、とことんやろうと自分に言い聞かせた。


■3 起死回生のヒット商品生まれる


◆業界初の《だし+白醤油=料亭白だし》


社員を解雇した前年、白醤油の得意先である岐阜県高山市のホテルの料理長から、「いい醤油なんだから、これにだしが入っていたら、すぐ茶碗蒸しができる」と言われた敦典は、「ヘーっ」と思った。というのも、濃口醤油にだしを入れたものは市場にあったが、白醤油に入れたものはなかったからだ。
そこで白醤油でもできると思い、研究を開始した。と言っても、社員16名、平均年齢58歳、雨漏りのする工場で研究員はゼロ。試行錯誤の連続だった。調味料会社の営業マンで研究開発の経験がある人からアドバイスをもらい、グルタミン酸を、取っただしと白醤油を合わせてつくった。
板前に見せると、「こんなもん持ってくるな」と叱られた。そこで、カツオのエキス・フレーバーと、だしと、白醤油を合わせて持って行って、「これはいい」と評価された。しかし、「1・8リットルビンの最後のほうは、いやな臭いがするから駄目だ」とまだまだ課題があった。
そこで本物のだしだけにし、その原料にこだわることにした。全国を回って、鰹節や椎茸、昆布を厳選し、試作を繰り返した。ようやく料理長からオーケーをもらうことができたが、ここまでに4年の歳月がたっていた。
最初は「だし白醤油」としたが、プロの板前さんに認められたことから「料亭白だし」と名付け、78年に発売した。これがホテルや料亭で評判を呼び、業績は一気に回復した。
資金もない、技術力もない小さな会社がヒット商品を生んだ。その理由を敦典は、「必死に取り組んだからだ」と当時を振り返る。必死になってやるとオーラが出て、そのオーラを天が見て認めるとヒットするという。「要は天が心を動かされるくらい死にもの狂いでやれるかどうかです」と敦典は語る。


◆業務用から家庭用へと市場を拡大


「料亭白だし」は業界で注目されるようになった。地元の醤油会社も「白だし」をつくり始め、ついに愛知県で一、二位の大手も参入してきた。そこで、差別化のため84年にだしを4割増やした「特選料亭白だし」を発売。価格も4割高くした。
卸問屋の営業員は、「こんなに高くては売れない」と思っていた。そこで敦典は「『だしを4割増やしました。風味を確かめてください』とだけ言ってみてください」と問屋の営業員にお願いした。板前は違いがすぐわかる。わかる人はすぐ買ってくれるはずだ。敦典の読みはあたり、特選料亭白だしは売れていった。
「料亭白だし」も「特選料亭白だし」も、もともと業務店に販売していた。しかし、板前の中には友人や家族へのお土産として使う人がいて、業務以外の一般の消費者に評判が広まった。
七福醸造に一般消費者からも直接注文が舞い込むようになる。営業しないで受けた注文は「おまけ」と思って売っていたが、一般の消費者からの注文がどんどん多くなり、「料亭白だし」がスーパーでも売れると敦典は確信。食品問屋のアドバイスもあり、小さな360ミリリットルの商品を開発した。
ただ、スーパーからは「普通の醤油の3・5倍の値段? 味噌汁で顔を洗ってこい!」と怒鳴られ、大手食品問屋からは「この価格では話にならん。ギリギリの売価にしてくれ」と難題を突き付けられた。
そこで、「こだわりの原料をふんだんに使い、最高の品質にしてあります。値下げするには、品質を落とさなくてはなりません。お客様に満足して、喜んでいただくためには、この品質を絶対に落とすことはできません」と。
数日後、問屋さんから「スーパーを説得した。味も素晴らしいから、売価はそのままでいい。お客様に味わってもらえれば納得してもらえるので、実演販売をしてほしい」と申し出があった。
敦典も実演販売で店に立つ。試飲した人たちは、「わぁ! おいしい!」と絶賛。まわりの人たちが次々と寄ってきて、本当によく売れていった。
この実演販売は当たり、発売から4年間は売上げが倍倍の勢いで伸びた。敦典は、実演販売の仕事を専門家に依頼し、営業の仕事に全力をあげる日々となった。出張先から家に戻るのは、夜中になることもあるが、翌朝には早くに出かける。子供たちの顔もろくに見られない日が続いた。
それでも、「二度と社員を解雇するような会社にしたくない!」という敦典の思いがあったから、これほどまで必死に働くことができた。
七福醸造の「料亭白だし」が地元で評判がよく売れていたので、大手メーカーが攻勢をかけてきた。各スーパーの棚には七福醸造の白だしではなく、価格の安い他社の商品が並び始める。
ところが、他社商品に切り替えたスーパーの売上げが3カ月連続して下がったことがあった。他社の白だしは安いから一度はそれを買う。しかし、味の差が誰にでもわかるほどなのだ。そうなると七福醸造の白だしを求めて、他の店に流れるようになっていたのだ。
すると、そのスーパーが「また売ってやるから、何も言わずに持って来い」と七福醸造に言ってきた。取引停止に対するお詫びの言葉もなかった。取引停止にされたとき、敦典は他のチェーン店のスーパーもすべて他社の白だしに変えるかもしれないと、胃痛、下痢、不眠に悩まされ続けてきた。そのスーパーからさんざん苦しめられてきたのだ。
しかし、敦典は怒りを閉じ込めた。会社を存続させることのほうが大事だった。ただ、このまま販売店だけに依存して販売を続けていくと、きっと会社の経営が厳しくなる。そこで、直販に力を入れることにした。その頃ちょうど通信販売部を設けるほど、一般の方からの電話注文が増えていた。


◆通信販売会社 ㈱味とこころを設立


直販を強化すると決意して間もなく、チャンスが訪れた。敦典が社長になった85年10月、テレビ局から「テレビショッピング」で「料亭白だし」を取り上げたいとの申し出があった。
テレビの影響力は凄い。放送から3日間で900ミリリットル4本入りが6000ケース以上も売れた。テレビ局では放映直後から3日間、電話が鳴りっぱなしだったという。これを機に、「料亭白だし」が一気に関東一円に広まり、次々と大手醤油メーカーが参入してきた。
そこで、ヒットを永く続けるため、工場長に「少しでも商品をよくするため、原材料費を毎年上げること。上げないと減俸にする」と、驚くべき命令を出した。消費者は使い慣れてきて、体調が少しでも悪いとき、「味が落ちた!」と思い、購入をやめることが往々にしてある。だから、価格が高くなっても味がよければ買ってもらえると敦典は確信していたわけだ。
こうして88年、通信販売会社㈱味とこころを設立(2016年4月から七福醸造の通信販売部門になった)。社名は「味も大事だが、心はもっと大事」という敦典の信条だ。
当初は「料亭白だし」と「特選料亭白だし」でスタートしたが、「白だし」を使いきるまでには時間がかかるため、次の注文まで時間が空く。また、利便性を求める消費者の声に応えるため、「料亭白だし」を使ったフリーズドライの雑炊やお吸い物、釜めしなどを販売することにした。
ファンを増やし注文頻度を上げる思いがあった。またその頃、敦典の両親も高齢となり、おいしい雑炊があれば喜んでくれると思った。
また、本物で自然な食品をつくっている全国の生産者を応援することにし、足で探した選りすぐりの食品を取り寄せて紹介することにした。
会社設立から28年になる現在、アイテム数は160種以上に及んでいる。ちなみに、「料亭白だし」「特選料亭白だし」は発売から今日まで、高級品の中ではトップシェアを続けている。


◆薬膳専門会社 ㈱薬膳ハートを設立


敦典は社長になったとき、食品業界の将来について考えた。必ず「本物・自然」の時代が来る。次に「医食同源」の時代が来る。「食べることで健康になる食品」が主流になると確信していた。
そこで、白醤油の原料である小麦と大豆を有機栽培のものに切り替えた。そして2001年に日本で初めて「白醤油有機JAS認定工場」となった。白醤油有機JAS認定工場は16年現在、いまだに七福醸造だけである。
医食同源については、「料亭白だし」に漢方を採り入れれば健康食品になるのではないかと考えた。そして「やる以上は本物の漢方を」と思いたった敦典は、中国から漢方の先生を招聘するために、何度も訪中した。
つてを頼った末に、漢方の専門医で黒龍江省省立病院の医師だった于敏蘭(う・びんらん)先生と出会うことができた。敦典は思いを伝えると、于先生は2年間だけ日本に来てくれることになった。結果的には8年の長期にわたり協力してもらうことになる。
于先生が最初に開発したのが、98年完成の葯膳だし醤油「養寿」だ。これはその後中国で、使い続けると健康促進効果があると認められ、日本の特許にあたる「発明専利」を取得した商品である。さらに、無添加葯草入り白だし「金宝寿」を開発・発売した。こうして七福醸造は薬膳調味料のパイオニアとなった。
その于先生がある日、蔵の奥に保管していた熟成梅のビンを見て、驚きの声を上げた。実は83年に、会津高田梅をリンゴ酢漬けにした濃厚梅ジュースを開発・販売していたが、売れ行きが芳しくなく廃番にしていた。しかし将来、梅を使って商品開発をしたいと考え、研究用として残していたのだ。
「10年以上も熟成させた梅は宝です。こんな素晴らしい梅はつくれない。保存状態もいい。ぜひ、これを研究してみたい」と于先生は言った。
こうして、薬膳健康飲料の研究がスタートした。単においしいだけでもよくないし、体によいだけでも売れない。何百種類もある葯草のなかから「君臣佐使」という漢方の理論を十分に取り入れ、組み合わせ、漢方の力を数倍も効果の出る配合割合にした。それは、想像を絶する仕事内容だった。
3年の月日をかけ、04年に熟成梅のエキスと葯草16種類でつくった、おいしくて飲みやすい、しかも日本人の体質に合う、底知れぬ力を秘めた「葯膳梅」が完成した。葯草を知り尽くした于先生だからできたのだ。
この後、薬膳の専門会社㈱薬膳ハートを設立。于先生とも親しい開業医師が、病状が回復せず困っていた患者に飲用させると、次々と元気になっていったという。
于先生が帰国した後、于先生の姪で漢方の専門医である関于(かん・う)先生が薬膳の研究を続け、新たに「葯膳梅ゼリー」「葯膳ぞうすい」「やく膳すうぷ」などを商品化している。
「葯膳梅」はクチコミで広まっているが、愛飲者が年々増えており、今では定期購入の方も増え、喜びや嬉しさに満ちたお礼の手紙や電話が後を絶たない。


■4 感動を伴う気づきが人を成長させる


◆一倉先生が社長を本気にさせた


「料亭白だし」の営業で飛び回っていた敦典は、訪問先の社長から「社長の息子なら、一倉定という経営コンサルタントの話を聞きなさい」と勧められた。
退職希望者が出てから、「自分には何が足りなかったのか」という疑問がずっと頭の隅にこびりついていた敦典は、話を聞いてみたいと思ってはいたものの、営業は南川営業部長と敦典の2人だけだったから、抜けるわけにはいかない。ようやく社長になった翌年、新入社員に営業のやり方を教えてから、一倉先生のセミナーに参加した。
先生は開口一番こう言った、
「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、すべて社長の責任。社長の正しい姿勢こそ正しい経営の基本である」
敦典は、頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた。会社が倒産しそうな経験をしてから先生の話を聞いた敦典は、一言一句を心で受け止め、腹の底から理解した。
「社員を娘や息子と思えるか」「社員に会社の未来像を示せ」と言われたとき、敦典は、心が震え、涙が出た。それこそ当時の敦典に足りないものだったからだ。先生に出会って敦典は考えが変わった。
一倉先生は怒ると怖い人だった。営業不振を社会環境や社員のせいにしたら、「馬鹿もん!」と怒鳴って、チョークでも灰皿でも手元にあるものを投げつけた。
一倉先生は、中小企業は社長がどれだけ真剣にやるか、必死になってやるかですべてが決まることを態度で教えてくれたのだ。一倉先生が経営相談に乗った会社は5000社以上に及び、その中には倒産の危機に直面していた会社もある。そういう会社から「先生、助けてください」と泣きつかれると、「なんでもっと早く連絡しないか」と言って、駆けつけてくれる。自ら手形の支払先に行って「この手形、60日ジャンプしてください。ちゃんとやらせますから」と頼んでくれるのが一倉先生だった。
事業本部のビルを建てるとき、メインバンクがお金を貸してくれなかった。そこで敦典は「長期資金運用表」をつくり、「どこか抜かりがないか、教えてください」と先生にお願いした。後日、「また、楽しみが一つ増えました」というハガキが届いた。
銀行の支店長に、「今回の件について、実は一倉先生からお墨付きをもらっています」と話すと、支店長は驚いて「見せてくれ」といってそのハガキを見る。そのハガキのおかげで、即、融資を受けることができた。なぜか? 関西方面の支店に勤務した経験のある支店長は、一倉先生の指導先会社は経営成績がいいことを知っていたからだ。
一倉先生のすごいところは、社長を本気にさせるところだ。人間、本気になれば何だってできるようになるという気持ちにさせてくれた。


◆「環境整備」で心を磨く


一倉先生の教えの中でまっ先に実行したのが、「環境整備」だった。環境整備とは何か、目的は何か、といった講義をしても右から左へ抜けていって身につかないので、敦典は、「首から下の教育」と呼ぶ体験教育を行うことにした。教育といっても何も教えない。ただ「これをやりなさい」と指示するだけだ。
87年、「企業の基本は人。人の基本は心。その心を磨くために、毎日1時間、範囲を決めて磨くことにする」と敦典は宣言した。毎朝8時から1時間、全社員でトイレ、階段、事務室などを心をこめて磨くことしたのだった。
敦典は、いやなこと、きついこと、汚いこと、クレーム処理を率先してやると決めていたので、トイレを担当した。道具は使わない。素手で、爪を立てて、ピカピカになるまで磨いた。やってみると、気持ちがいいし、充実感があるのがトイレ掃除だ。「今日も一日がんばろう」と気合いが入る。
一心不乱にやっていると、社員の敦典を見る目が変わってきた。そして、「自分にやらせてください」という社員が出てきた。
このトイレ掃除は周辺の会社で話題になり、見学に来る社長が多くなってきた。そこで、地元の社長たちに声をかけて、97年に「西三河掃除に学ぶ会」を発足させ、近隣の小中学校に行って、生徒たちと一緒にトイレの便器を素手で磨くことを始めた。
生徒たちは、最初は「やだぁー」と言ったり、臭いから鼻をつまんだりする。ところが、1時間経ち2時間たつと、頭を便器の中に入れて、もっときれいにしようと思って一心不乱になる。
ある男子中学生は、感想文に次のようなことを書いた。
先生から出て来いと言われたから、仕方なく学校に行った。みんなが掃除を始めたので、渋々、いやいや始めた。ところが、だんだん夢中になっていった。そして、磨き終えたとき、「こんなすごいことが世の中にはあるんだ」と思った
環境整備は人を変える。七福醸造の社員も変わった。声が大きくなった。動作や話しぶりがキビキビとしてきた。社内が明るくなった。
そこで、工場でも3日間稼働を止めて、心をこめてとことん磨く「集中環境整備」を年2回行うことにした。コンベヤーのローラーを外して1本1本磨く。ステンレスの細い支柱1本を、3日間かけて、顔のシワさえはっきり映るまで磨く。ピカピカになった鉄のハンマーがテレビで紹介されて話題になったこともある。
始めた当時は、年9回、土・日の休日に、事業本部と工場周辺の路上で「空き缶・ゴミ拾い」を行った。これは、一つ拾ったら一つ徳が身につくという意味で、「徳拾い」と呼んでいる。20歳の社員が「空き缶を拾っていて恥ずかしくなった。いつも車から捨てていたから。これからは一生捨てません」と言うのを聞いて、「始めてよかった」と敦典は思った。
99年に一倉先生逝去の連絡を受けたとき、敦典は一人荒野に取り残されたような絶望的な気持になった。いろいろなことが思い出され、悲しみがこみ上げてきた。


◆三河湾で100㎞歩け歩け大会


一倉先生の教えである「会社の経営の基本は人づくり」「社員を息子や娘と思えるなら厳しく育てろ」「社員が気づきの深い人間に成長すれば、会社は成長する」をどのように実践していったか、その一端を紹介する。
まず「100㎞歩け歩け大会」。これは、96年の第1回から、16年の秋で21回目を迎えるイベントだ。「感動・感激・感謝」を体感できることから、今では全国各地から約1500名もの人が参加し、参加費の中から1人4000円程度を福祉施設などに寄付する大イベントになっている。
きっかけは、知人の社長の「男性社員だけで50㎞歩く会をやっているけど、ものすごく感動するよ」という言葉だった。「おもしろそうだな」と思った敦典は、社内で春と秋の2回、「30㎞ウォーク」を始めた。やってみて、「これは社員教育になる」と続けていた。
その後、別の先輩社長が「先日、札幌・小樽間を歩く100㎞歩け歩け大会に挑戦して完歩した」と敦典に言った。「そうだ、どうせやるなら限界に挑戦しよう」と敦典は思い立った。帰ってすぐ社員に「100㎞歩こう」と言った。
当然社員は全員反対。「仕方ない。一人でも歩く」と言うと、一人、また一人と、「一緒に歩きます」という社員がどんどん増えていった。結局、全員歩くことになった。こうして伴走以外の社員36名が挑戦。11人が完歩した。
完歩した社員が言った。
「社長、自分でここが限界と思ったら、本当にそこが限界ですよ」
彼の足は血マメだらけ、足の筋肉はパンパンに張り、ゴールと同時にもう歩けなくなるほどだ。皆で彼の身体を持ち上げて、車に寝かせた。翌日、完歩した社員が足を引きずって出社したときの誇らしい顔、痛々しい姿が輝いて見えた。
11月初めの土・日。コースは、七福醸造の工場のある碧南市から渥美半島先端の伊良湖国民休暇村までで、時間は無制限。なお現在は、碧南市から豊橋市で折り返しみかわ温泉まで、制限時間は30時間だ。
第1回大会の敦典は、妻を伴っての出発。10㎞、20㎞、しだいに足の筋肉が硬くなるのを、立ちどまっては揉み、立ちどまっては揉み、「痛い痛い」と言いながらも、なんとか歩みを進めた。あたりが暗くなりはじめると、温かいコタツが恋しくなる。それでも夫婦で励まし合って、歩いた。
「ちょっと休もうか。自販機があるよ」。
冷たいジュースをグイっと飲んだのが運のつき、身体はガタガタ震え出し、痛みが極限に達したように思った。足の筋肉はコチコチ。敦典たち夫婦は、48㎞でリタイア。限界と自分で決めつけていたと敦典は当時を振り返る。
「なんて無謀なことを始めたんだ。こんな辛いことは、もうやめよう」
しかし、言いだしっぺの敦典からは、そうは言えない。社員から言ってくるのを待ったが、全員が「続けよう」「今度は完歩したい」と言いだしはじめた。
敦典の妻は第2回大会で完歩した。第1回で完歩した社員から、絶対あきらめない心を教えられた妻は、完歩することを決めていた。そして毎日の生活の中で足を鍛え、少しの所でも歩く訓練をひそかにしていたという。
敦典は2回目も60㎞でリタイアした。第3回大会で敦典は、半年前から会社の周辺を歩き回って足を鍛え、ようやく完歩できた。そこで初めていろんなことが見えてきた。
まず、過酷な体験であること。足が棒のようになる。痙攣する。豆がつぶれる。肩も張る。意識がもうろうとなる。そういうなかで、「もう限界だからリタイアしよう」と思う気持ちと、「負けてたまるか。なんとしてもゴールするぞ」という気持ちが戦い始める。
そして、いろんなことに気づく。自分の至らなさや、人に支えられていることや、人の心の温かさなど。だから、完歩した人は異口同音に「自分一人の力では完歩できなかった。多くの人の励ましやサポートのお陰で完歩できた」と語る。
こうした逆境の中での感動を伴った気づきが人を変える。大会後の感想文に、こんなことを書いた女性社員がいる。
彼女は大卒の新入社員で、家族に「100㎞なんて無茶だ」と反対されたという。でも、新入社員は全員歩くから、「私も歩きます」と言って参加。ところが50㎞くらいから足が痛くなり、「なんでこんな辛い思いをしなくちゃいけないのか」と悪いことばかり考えるようになった。
85㎞を過ぎたあたりで、とうとうついていけなくなり、「あきらめないでがんばるから、先に行ってください」と、一緒に歩いていた2人と別れた。そうは言っても悔しい。しかし寒いし、眠いし、痛い。「こんな会社辞める」と思いながら歩いたという。
それでも歩いていくと、前方に足を引きずって歩いている社員が見えたので、「自分と同じ人がいる」と彼女はホッとした。ところが、彼女がその社員を追い抜いたとき、追い抜かれる社員がニコッと笑って、「がんばろうね」と言った。
それを聞いて、「こんなに辛いときになぜあんな笑顔ができるのか。追い抜かれる弱い人が追い越していく強い人を励ますなんて。それに比べて、私の心はなんて貧しいんだろう」と彼女は強く感じた。
そして、97㎞の最後の休憩ポイントに着くと、先に行ってもらった2人が待ってくれていた。100㎞近く歩いて長く休みをとると、膝が固まって動かなくなる。いつ来るかわからない人を待てば待つほどつらくなる。それでも2人は待っていた。その2人に、「一緒にゴールしたいと思って待っていたよ」と言われて、彼女は涙を抑えるので精いっぱいだったという。
そして、「30分前に追い越して来た人がいる。もうしばらく待ってくれないか」と頼んだ。やがて現れたので、4人でゴールした。その途端、なんと今まで励ましてくれていた社員が座り込んで動けなくなり、泣きだした。
それを見て、「ああ、休憩ポイントでは、いつも私にマッサージを勧めてくれたけれど、彼女も本当は自分と同じように辛かったんだ。でも、一緒に歩いている私を気づかい、表に出さなかったんだ」と気づき、彼女は「私は一生彼女を尊敬します」と書いて、感想文を締めくくっていた。彼女は人として大事なことを学び、大きく成長したのだ。


◆体験教育、裏方の仕事で育つ社員


表舞台を支える社員の裏方の仕事も体験教育だ。
100㎞ウォークを例にとれば、3月頃から下準備に入る。コース上の道に不具合があれば迂回コースを考える。歩道はしっかりとあるか、コンビニなど買い物が十分できる距離にあるか、道路工事の予定はあるか。コンビニの方へのご挨拶とお願いなど、当日までに数回の下見をする。事実、直前に崖崩れで通行止めになったところもあった。
これらのことのほとんどが、仕事が終わってから夜遅くまで行われている。
書類作成と募集要項の発送、帰りのバスの手配、リタイアの方用のバス運行のこと。各チェックポイントに配置するテント、椅子、照明器具、トイレットペーパー(各コンビニ店に使用分として)、ゴミ箱など。やらなければならないことは、山ほどある。その一つひとつを実によく気配りし、根気よくやり遂げているのが七福醸造の社員だ。
当日は、参加者集合の約2時間前に社員は集合し、受付準備をする。受付ではゼッケン、預け荷物の受け渡し票、スタートの順番票を渡す。1500名くらいの参加人数のため、スタートは4、5回に分けて行う。
多くの準備事項は回を重ねるごとに積み上げられたノウハウの結集だ。社員で歩くことのできるのは新入社員と未完歩の人と、あと2、3人。社員はほとんどこの大会を成功させるため、裏方として行動する。大会終了まで、歩者の姿を一度も見られない係もいる。
三河湾チャリティー100㎞ウォークは、本当によく雨にあう。どしゃぶりの雨と強風の中、寒さに震えながらも、立ちっぱなしでがんばっている社員の姿に敦典はいつも感動を覚える。
チェックポイント撤収のとき、使わせていただいたトイレをきれいにし、お店の周囲を清掃して終わりになる。涙のゴール姿を見るにつけ、今年もやってよかった、事故もなくてよかったと、敦典は遠方より駆け付けた大勢のサポーター、企業関係者に手を合わせる。
参加者が全員バスで帰ってから、ゴールの宿泊所の片づけ、ゴミ集め、すべてトラックに積み込む。解散式が終了し家に着くと、ただ眠るだけだ。翌日朝7時に集合し、使用したテント、椅子など一切をきれいに拭き清める。後日、お世話になったコンビニや協力各企業にお礼の挨拶をしていくが、敦典が何も言わなくても、社員が次々と考え行動していく。
こういった社員の姿は、敦典の誇りだ。体験教育で社員は大きく成長している。


◆阪神淡路大震災の神戸で炊き出し


95年1月17日未明、阪神・淡路大震災が発生。すぐに神戸市役所に「片づけの手伝いがしたい」と電話すると、「今は対策本部もできていないし、余震で二次災害が起きても責任が取れないから、来ないでください」と断られた。
しかし夜、テレビで炊き出しの様子を見たので、再度、「うちは食品会社ですから、炊き出しをしたい」と電話。「それなら大歓迎です。食べるものがなくて困っています」ということだった。
すぐに社員を派遣。どこで炊き出しをするか、必要な調理道具は何かを調査させた。そして、「西三河救援隊」の名で、兵庫県南東部の西宮市を最初の炊き出し場所とし、交替制で社員3~5名を2泊3日で送り込むことにした。
炊き出しは、味噌汁、うどん、豚汁、雑炊とし、残った社員でまず500食分の食材の買い出しと下ごしらえをした。
油揚げもネギも大根も、最初はスーパーで買っていたが、一カ所で買うとほかのお客さんの迷惑になるため、時間をかけて何軒か回り、豆腐屋さんや農家からも分けてもらった。
豆腐屋に行ったとき、500食分の油揚げをもらった。払おうとすると、お金を受け取ってくれない。何度言ってもだ。仕方なく「1月いっぱいはそうさせていただきますが、2月からはお金を受け取ってください」と言った。
2月になった。払わせてくださいと言ったところ、「七福さん、いつまでやるの?」と聞いてきた。「寒い間はやります」というと「では、私も付き合う」と豆腐屋は最後までお金を受け取らない。日がたつにつれ炊き出しの量も増えてきたので、別の豆腐屋に行って頼むことにした。
「前の豆腐屋さんでは、いくらで買っていますか」と聞かれたので1枚10円というと「6円でいいです」と言う。翌日、受け取りに行ったら、30㎏入りの砂糖の袋に入った油揚げが用意されていたが、不良品だから半袋分の代金のみで結構ということになった。
会社に帰って、近隣の主婦と社員が一緒になって刻む。しっかりした油揚げだったので不良品であることにみんな首をかしげた。主婦たちが同じものを売っているのを見て、不良品ではないことに気づき、翌朝「社長、あれは商品ですよ」と言い始めた。
そこで豆腐屋に行って、「あれは商品だとみんな言っています」と言った。すると女性社長が、「私たちも神戸の炊き出しに協力したい」と言う。そして「不良品と言わなきゃ持って行ってくれないでしょ」と。それを聞いた当社の二人の女性社員と女性社長の3人は泣きだした。
ネギも1000本の約束なのに、行くと1300本がびしっときれいに揃えてある。「数が多いですよ」と言うと、「私の気持ちだ。持ってけ」の一言。大根も全部洗ってパレットに縛って積んであった。しかもお金を受け取ってくれなかった。肉屋さんも豚肉を買いに行ったら、半値で分けてくれた。
ニンジンもあの年は値が高騰して手に入れるのが大変だったが、毎日30㎏を七福醸造の出入口に置いていく人がいた。敦典に見つかるとお礼を言われるからと、そっと置いていったという。困った人がいたら精一杯助ける人が、日本人の中にはいっぱいいるのだ。
そうして入手した食材を社内の調理室で、近隣から集まった主婦の方たちと社員で刻んで神戸に運び、早朝から調理して被災された方たちに配った。
涙顔のおばあさんに、手を合わせて「ありがとさん、ありがとさん」と言われた女性社員は、おばあさんの肩に手をやるだけで、がんばってくださいの声も出ませんでした。会社に戻ってきて「あんなに感謝されたのは生まれて初めてです」と、敦典の前で涙を流した。敦典も毎日感動して泣いた。
1日500食から始め、その後1000食、1200食と増やした。ただ、少ないときで社員の4分の1、多いときで3分の1を動員していたから、経理担当の役員が「ボランティアの人も増えてきているので、社員の人数を減らしてください」と敦典に言った。
敦典は「応援する人が増えているということは、天からのもっとやれというメッセージだ」と突っぱねた。そして、「3000食でも5000食でもやらなければならない」と言った。すると、本当に3000食を約束してきた。朝3000、昼2000、夜3000と1日に8000食になったこともある。想像を絶する体験だった。38日間にかかった費用は1200万円くらいになった。
経費がかかるから、「このままいくと会社が潰れます」と言う幹部社員もいた。そのときも、「潰れたらまた興せばいい」と敦典は突っぱねた。
なぜ、そこまでやるのか。困っている人がいたら助けるのは当たり前だからだ。助けの手を差し伸べられるのは幸せなことだ。食材の買い出しのときも思ったが、日本人はみんなそういう気持ちを持っていると。
「西三河救援隊」に参加したいと、近隣の会社は照明機器やテントを持ってきてくれた。碧南市の中学生の方たちは、大根などを取りに来て、学校の調理実習室で刻んでくれた。婦人会の方たちは、包丁・まな板を持って参加し、会社の二階にある調理研究室で作業してくれた。会社全体が、小口切りにしたネギの臭いでいっぱいになった。
この炊き出しで社員は「うちは他の会社とは違う」という誇りを持ったのだろう。敦典の「人の役に立つ会社になろう」が建前ではなく本音だということを知った社員たちは、「社長は口と腹が一緒だ」と話していたそうだ。敦典は「会社が一つになった」と感じた。
この炊き出しは、愛知県の中学校の道徳の教科書にも載るエピソードとなった。


◆東海豪雨の新川で水害救援活動


2000年9月11日から12日にかけて、名古屋周辺で起きた東海豪雨のときも、救援活動を行った。12日に新川が氾濫して15日に水が引いたので、「おい、行くぞ」と社員に言って、2トン車で向かった。向かった先は敦典の妻の実家だ。実家は仕出し屋をやっていて、3人の兄弟家族が住んでいた。
ステンレス製の冷凍庫に冷蔵庫、調理台など大きくて重いものが浮き上がり倒れていた。下準備をして冷凍されていた食材はすべて廃棄処分。水は、グングン水位を上げ、店の商品を二階に上げることさえできなかった。
突然、災害に見舞われて頭が真っ白になっているから、「片づけたいので指示してください」と言っても返事がない。「じゃあ、好きにやりますよ。いいですね」と念を押して、場所と人数を指定し、片付けを始めた。
初日は、水を含んだ畳を外し床板も外し、散乱した家具や道具を片づけた。泥水をかき出し洗い流した。2日目、きれいになったところを眺めてみると、壁土の色が変わっていることに気づいた。壁土落としを始めた。表面はきれいに見えた事務所の板壁もはがしてみると、内側のU字鋼に汚水が残っていた。徹底的にやり直すことになった
被災された方たちが、何も考えられない、動く力さえ湧いてこないのは、当然かもしれない。道路いっぱいにうず高く捨てられた衣類、家具、生活用品、一切合財が汚れて使えないが思い出が詰まったものばかり。「ゴミと言わんでくれ」と泣いていた老人の姿に敦典たちは胸が詰まった。
若い男性社員は、各家庭から出された道いっぱいの廃棄物を2トン車に積んだ。いくら若いといっても、量が半端ではなかったから、夕方にはフラフラだ。
周辺一帯を次々と片づけ、車が楽に通れるようになった。妻の兄弟は近所の住民から「七福さんにお宅の娘さんが嫁いだおかげで助かった」と感謝された。
今でも敦典が覚えているのは義理の兄の言葉だ。
「きれいに片づいてうれしい。自分たちだけでやったら半年先になっていただろう。でも、一番うれしいのは、ボーッとしてやる気もなく、これからどうしようとも考えられなかったが、皆さんの働く姿を見て一緒に身体を動かしているうちに、マイナスからでもいいからもう一度やり直そうという気持ちを起こさせてくれたことだよ」
忘れられないのは、70歳を過ぎた上の兄のこと。人工透析をやっていて何も手伝えない。その兄が別れ際に、手を合わせ、涙をポロポロ流して、「ありがとう」と言おうとするのだが言葉にならなくて、「あっ、あっ、あっ」と声を出すだけだった。
その姿を見て全員胸が熱くなった。「せっかくの三連休だったのに申し訳ない」と思っていた敦典だったが、「来てよかった」という社員の言葉をうれしく思った。今でも、敦典がこれら災害のことを話すと、社員は感動したことを思い出し涙ぐむほどだ。だから、七福醸造では体験させることこそ本当の教育と考え、熱心に取り組んでいる。


◆毎年4月の「親孝行月間」


社員教育としては毎年4月、1カ月の間にした親孝行や先祖の墓参りなどで感じたことについて、感想文を書かせている。親孝行は人の基本であり、「親孝行三代続けば長者の暮らし」という諺があるように、親孝行は幸せになるための一番の方法であることを教えるために始めた。
ある年、「ご両親の足を洗わせてもらおう」という課題を出したときのある女性社員のエピソードがある。
その社員が母親に、「足の裏を洗わせて」と言っても、恥ずかしいのか洗わせてくれない。母が風呂に入った直後に、自分もすぐ入り、母の足をつかんだ。足の裏はガサガサだった。こんなになるまで苦労して自分を学校に行かせてくれたのかと、その社員は胸がいっぱいになった。
でも、泣くのは恥ずかしいから、母の足を一生懸命洗った。ポトッ、ポトッと上から涙が落ちてきた。母も泣いていた。こらえきれずに涙があふれて、何も見えなくなった。早々に風呂から出て、自分の部屋に閉じこもり、布団をかぶって声を上げて泣いたという。


◆体験教育で得た経営者冥利


自社の商品を買ったお客様、サービスを利用したお客様から、「ありがとう」と言われたとき、「商売冥利に尽きる」と言う。敦典も「料亭白だし」や「葯膳梅」などの自社商品を購入したお客様から「ありがとう」と言われると、「ああ、この仕事をやっててよかった」と幸せな気持ちになる。
では、経営者冥利はどうだろうか。敦典は友人の社長の子息の「社長就任式」に招かれたとき、「中小企業の社長なんか、やるもんじゃない」と話す。苦労が多い、休みなく働かなければ会社を存続できない、しかし、それでも社長をやるのはなぜか。
それは、やろうと思えば自分の生き方や哲学のままに経営できることにある。
敦典は子供たちを幸せにしたい、社員を幸せにしたい、そのために会社をこうする、食品をこうする、社会をこうしたい、日本をこうしたい、世界をこうしたい。そうした夢があればどんな苦労にも耐えることができる。その夢が実現していくたびに冥利を感じる。
また、社員の成長を目の当たりにしたときにも、冥利を感じる。七福醸造を訪れた人から、「お宅の社員は、どうしてあんなに明るいんですか。生き生きしているんですか」と聞かれたときや、「嫁さん、婿さんもらうなら七福からもらえ」という評判が立ったとき、「経営者になってよかった」と敦典は感じるのだ。そんな冥利や醍醐味を感じてきたから、辛いこと、苦しいことを乗り越えることができたのだ。

七福醸造の体験教育のもととなっているのが、同社の経営理念である。この経営理念がどのようなものかを紹介する。

◎経営理念
・私たちのすべての基準は、それが世界中の子供子孫にとってよいことかどうかです。

今の日本は、経済がすべてに優先し、今さえよければいいという風潮がある。国の借金のツケを次世代の子供たちに回そうとしていたり、地球環境を破壊し続けていたりしている。食品業界では、身体に悪い添加物だらけのものをつくり、売り、それを子供たちが食べていることが多くみられる。
「あなたにとって一番大事なものはなにか」と問われると、ほとんどの人が「家族、子供、子孫」と答える。しかし、そういう人が子供や子孫に悪いことをしている。そこに義憤を覚えた敦典が、「子供たちのためになることはやる、ためにならないことはやらない会社にしよう」と決意して成文化したのがこの経営理念だ。
「すべての基準」とは、価値基準、判断基準、行動基準である。「世界中の子供子孫」としたのは、世界中が平和にならなければ日本も平和にならないように、世界中の子供子孫を守らなければ、日本の子供や子孫を守ることはできないからである。

◎創業理念
創業理念は会社の目標を明文化したものである。3つの言葉・フレーズは創業時ではなく犬塚敦典が社長になったときにつくったものだ。

・人間も地球環境の一部である。
チベットの行者の言葉で、地球上のすべてのものは「共生」「共存」しており、人間もその中の一つである。人間のおごりによって地球環境を壊してはいけない。今以上に美しい地球を子孫に残す。これらの想いを込めている。

・命司道(めいしどう)
食品は人の命を司るものであるという敦典の造語だ。食品に携わる仕事を、茶道、武道のような「道」にまで高めていこうとする姿勢である。子供や子孫のために、安心して食べられる自然な食品を届けるという意味である。

・御用達
お客様に喜んでいただき、役に立つことができるかを追求し、実行することを競い合うという意味である。

七福醸造では、今後も、「経営理念」「創業理念」と「創業精神」を心の拠りどころ、行動規範、目標にして、経営活動を続けていく。


◆七福混声合唱団結成、第九演奏会を開催


「2001年の会社創立50周年に『第九』を合唱しよう」と敦典は提唱。90年に、田渕浩二先生(大学音楽講師)の指導のもと、社員全員で混声四部合唱団を結成し、毎週月曜日・朝8時から1時間、練習を始めた。
音楽に精通している社員は数人いたが、提唱者の敦典は音楽のことはまるでわからない。それでも3年、5年と活動を続けていると、合唱団として体裁が整ってきた。
年に一度、碧南市民病院でロビーコンサート「あじさい音楽会」を開き、また会社の経営計画発表会の席で、参加した方々に練習の成果を聴いてもらった。
碧南混声合唱団の方を中心に、近隣の合唱団にも出場者を募集し、小学生から70代までの一般の方、七福醸造社員、総勢223名の合唱団が結成された。岩手県釜石市から㈱味とこころのお客様も参加した。
オーケストラはNHK交響楽団団友、現役のNHK交響楽団の団員。指揮者は山下一史氏、錦織健氏、4人のソリストは日本でも有数の音楽家。その交渉と総合指導は、地元安城市在住の、オペラソプラノの加藤典子先生にお願いした。「出演決定!」の報告を受けたとき、演奏会担当の社員が感激した顔は今でも敦典の脳裏に焼き付いている。
演奏会当日までの半年間は、毎週金曜日の夜に集まって猛練習をした。最終段階に入ると、東京から山下先生に特別指導に来ていただき、全員の気持ちは盛り上がった。
そして、01年3月18日、碧南市文化会館ホールでリハーサル。舞台裏で「第九」の第二楽章が終わるのを待ち、合唱団が入場。満席の会場の熱い視線に緊張。定位置に立ってからは、まったく身動きできない。でも、顔の筋肉がこわばらないように静かに少しずつ動かしていたし、目は穏やかにしていた。
汗だくの山下先生のタクトが合唱団に向かって大きく振られ、思いっきり声を出した。不思議な感覚だった。緊張がすっかりほぐれ、いつもよりよく声が出た。夢中で歌った。客席から熱い思いが伝わってきた。最後のところで胸がいっぱいになり、涙があふれてきた。出演者全員の喜びの想い、いつまでも鳴りやまぬ拍手、涙をぬぐうお客様。会場内はこれまで敦典が味わったことのない感動で満たされていた。


◆記念式典・祝賀会もチャリティー


会場を替えて、夕方から記念式典がスタートした。今は亡き三恩人、犬塚棟一、犬塚金一、永坂國松氏のご子息も招待し、感謝の言葉を述べて記念品を贈呈した。続いて社員の永年功労者4名に、感謝の言葉とともに記念品を贈呈した。
そして、創立者である相談役夫妻(敦典の両親)に社員から贈られたレリーフの除幕式などが厳かに執り行われた。50年間を振り返り、万感の思いだったことだろう。満面の笑みを浮かべる両親を見て、敦典は「日本一の幸せ者」と感じた。
「料亭白だし」を永年ご愛用いただいているアナウンサーの押坂忍、栗原アヤ子夫妻の軽やかでユーモアあふれるトークに会場は和んだ。こんな素晴らしい感動の一日を迎えられたのは、創業以前から敦典たちを支え続けた方たちのおかげなのだと敦典は感謝の念でいっぱいになった。
創立者の父から会社を引き継ぎ、今は長男貴統が㈱薬膳ハート、次男元裕が七福醸造㈱を受け継いだ。次の100周年に向けて、「創業の精神を、全員で力を合わせて守ります。これまで以上の努力をします」と、心に誓った。
式典の後、岡崎市の児童養護施設米山寮に、「碧南市第九を歌う会」会長、事務局長、敦典と息子貴統と4人で出かけ、演奏会の入場料全額400万円を寄付した。


■5 子供や子孫に美しい地球を残す


◆「碧南地球村」を起こす


「あなたたちは何のために生きているのですか。社長、社長と威張っているが、あなたたちの人生の意義は何ですか。生まれてきた価値は何ですか」
87年、46歳のときに沖縄で開かれたセミナーで、一倉先生のご子息で哲学者の一倉洋先生から、こう問われた。敦典は自らを振り返り、それから2年間、ずっと考え続けてきた。しかし、いつも堂々めぐりで、答が見いだせない。いつしか考えることをやめていた。
ところが、92年3月、敦典51歳のとき、山梨県で開かれた「地球村」代表の高木善之氏の講演を聞いたことが、再び人生の意義を考えるきっかけになった。
「企業は経済成長の名のもとに未来を食いつぶしています。これまでの利便性とか経済成長といった考えを改めるべきです。そうしないと地球は滅びます」
敦典は高木氏の話に衝撃を受けた。敦典はさっそく地元に「碧南地球村」をつくり、何度も高木氏を講師に呼んで講演会を開いた。そうした活動をしているうちに、地球環境を守るために生きようと思うようになった。


◆内モンゴル自治区の沙漠で植林


93年3月、鳥取大学名誉教授を定年退官後、87歳という高齢にもかかわらず中国の沙漠で植林活動をしている遠山正瑛氏の講演があった。それを聞いた敦典は、地球の沙漠化の現状を知り、遠山氏の生き方に感銘を受けた。
敦典の母が「現地を見たい」と言うので、翌年3月、中国内モンゴル自治区庫布其(くぶち)沙漠へ付き添って行った。植林中のポプラの林を見て敦典は感動した。
帰国後、母は定期預金と生命保険を解約して、「私は高齢で植林のお手伝いはできない。苗木を買って植林に役立ててください」と、遠山氏が代表である日本沙漠緑化実践協会に3000万円を寄付した。遠山氏はその寄付で15万本の苗木を植え、「犬塚の森」と命名した。
目の前に果てしなく広がる沙漠、青々としたポプラの林、文明とはかけ離れた現地の人びとの営みに感動した敦典は、家族も行かせた。
そして96年、自らが味わった感動を社員にも味わわせたいと思った敦典は、社員全員を2回に分けて砂漠に連れていき、その後も数年、新入社員にも植林を体験させた。
現地の人の暮らしぶりを見たいと思って、社員とともに民家を訪ねたときのことだ。家の中には飾りが何もない。夜はマイナス30度近くになるのに、竈(かまど)しかない。その竈も、薪がもったいないから食事をつくるときしか使わない。食べ物も食べられるのは手に入ったときだけで、明日は食べられないかもしれないという話だった。そんな厳しい環境なのに、家族はみなニコニコしていた。
私たちは何でもたくさん持っているのに、不満を言う。食べるものに事欠かないのに、旨いだのまずいだのということがある。敦典はこのことに恥ずかしさを覚えた。
北京のホテルで敦典と同室だった男性社員は、「もうすぐ子供が生まれるので、大きなアパートに引っ越すつもりでいましたが、今より小さなアパートに越します」と言うほどだった。
広大な沙漠を見て、ものすごい勢いで進む環境破壊を肌で感じ、現地の人びとの暮らしを見て、自分たちの過剰な消費生活を反省させられたかたちになった。
植林のため、恩格貝(おんかくばい)にワンシーズン滞在した次男の元裕(現・七福醸造社長)は敦典の妻にこう言った。
「現地の人は水を汲んだり、薪を集めたり、生きていく上で必要なことしかしないから、怠け者に見えるかもしれないけど、ここの人たちほど地球にやさしい人たちはいない。何にも悪いことをしていない。それに比べると、私たちは地球を汚し傷めつけている。どっちが人間として価値があるのだろう」
現地の人たちのためにしている植林活動以上に、現地の人たちから大事なことをたくさん教えてもらったと敦典は語る。
沙漠の緑化活動に刺激を受けて97年、工場の近くの遊歩道などにソメイヨシノの苗木100数十本を植えた。地域や自然への愛着を育む一助になればと考えたためだ。今では春になると桜が咲き誇り、地域の人びとの憩いの場になっている。
地球に負荷をかけないモデル工場、庫布其沙漠恩格貝に行き始めたころ、社内でも「地球環境にやさしい会社へ」をスローガンに行動が始まった。95年から毎週月曜日午前6時から1時間半、「早朝環境会議」を開き、基本を学ぶことからスタートした。
オゾン層破壊の現実を知ったので、土曜日に社員が交代で出勤し、近隣の電気店や自動車修理工場などを回って、「フロンガスの無料回収」、温暖化防止のために「最小限の冷暖房」、二酸化炭素削減のために「徒歩通勤、自転車通勤、車の相乗り」の推進、森林保護のために「マイ箸」の使用、ビニールごみ削減のために「マイバッグ」の使用などを実施した。
勉強が進むと別の効果も出てきた。2泊3日の研修旅行では、マイ箸はもちろん、歯ブラシ、タオル、カミソリなど、宿泊先で使い捨てる用品は各自持参することにした。宿泊先に前もって連絡し、これらの用品は「準備不要」と伝えた。夜の宴会での飲料は飲み放題ですが、条件が2つあった。
①スリッパはいつでもきれいに揃える
宴会場では「社員教育です。はきものを揃えるのを当たり前にしたいのです」と敦典は話した。大浴場でスリッパがきれいに揃っているのを見た敦典は、「社員が入っている」と確信した。
②飲み物は一切残さない
宴会が終わってコップやビンに少しでも残っていたら、飲料代は参加者全員で割り勘とした。どれだけ飲んでもオーケーだ。きれいに飲み切ってあれば、すべて会社が負担する。宴も終わりに近づくと、みんなで残った飲み物はないか調べる。これは効果があった。飲み残しの無駄がなくなったのだ。
工場には浄化装置を導入し、ビン洗浄後の水や雨水を浄化して床の清掃に使い、堆肥化装置の導入で大豆かすや鰹節のだしがらを堆肥に変えて、農家に引き取ってもらう。これで年間200トンの産業廃棄物がなくなった。
98年、食品業界で三番目の早さで環境国際標準化機構「ISO14001」を取得した。授与式のとき審査官から、「本当の意味でISO14001に取り組んでいる会社に初めて出会えた」といわれた。全国から大手の醤油業や食品業界の人たちが見学に訪れた。なお、七福醸造に合った独自の環境管理をするため、16年1月末に認定の更新をやめている。
さらに06年、醤油業界で最初に、お客様に安全な商品を届けるためのマネジメントシステムの国際標準化機構「ISO22000」を取得した。


◆「天命に生きる」ということ


美しい地球を子供や子孫に残す。それが天から与えられた自分の使命である。その使命を果たすことに余生を捧げよう  そう考え、地球村運動や沙漠での植林、社内では「環境保全はあらゆるコストに優先する」をポリシーに、「4R」(ごみを出さない・減らす・再利用する・再資源化する)などを推進してきた。
そうした活動を通して、環境問題は人の心の問題であることに敦典は気づいた。加えて、将来環境問題により生活が厳しくなることを予見した。そこで敦典は社員に、「1日2食で、夜はおにぎり2個、大きさは自由」を3カ月間やってみようと提案した。
やってみると、ゴミは半分になる。食費は半分になる。光熱費も減り、体型もスリムになる。二酸化炭素は大幅に削減できるし、最後には原発もいらなくなる。しかし、こうしたことは長続きしない。手に入れた便利さや快適さ、豊かさは手放せないからだ。「わかっちゃいるけど、やめられない」のだ。
「人の心を変えるのは容易ではない。唯一の希望は未来の子供たちだ。先生や若いお母さんたちに、学校での教育や家庭でのしつけがいかに大事かを、あらゆる機会をとらえて訴えていきたい」と敦典は語っている。


◆子供たちに本物・自然の醤油と味噌を


敦典は社長になったとき、これからは「本物・自然の時代が来る、医食同源の時代が来る」と考え、まず薬膳の研究をスタートさせた。その頃、白醤油の原料である小麦と大豆を有機栽培のものに変えることも計画した。原料に占める大豆の割合は5%だから、すぐに有機に切り替えることができたが、小麦は95%を占め、しかも有機小麦の価格は普通の小麦の3倍以上になるので、すぐには切り替えることができなかった。切り替えたのは計画してから12年後のことだ。
有機栽培の原料を使わなければ、経営は楽になる。しかし、敦典は子供たちのためにと思い、歯を食いしばって信念をつらぬいている。
当社では11年から、無農薬・無肥料の自然栽培の小麦と大豆で白醤油づくりを始めた。しかし、自然栽培農家が少なく、手に入る原料には限りがあり、価格も高いため、現在は末期がんなどで食事が取れない人だけに提供している。
食という字は「人」に「良い」と書く。ゆくゆくは自然栽培の原料でつくった白醤油と味噌を、学校給食で子供たちに食べてもらう それが、敦典の夢だ。


◆日本人の心を伝えていく


この数年、敦典は日本と日本人について考えることが多くなった。東日本大震災が起きたとき、救援物資を受け取るために、小雪が舞うなか行列をつくって静かに待つ人びとの姿が世界中のテレビで放映され、海外に驚きを与えた。物資の取り合い、略奪、暴動などが皆無で、それどころか、あちこちで助け合いの輪が広がったことが注目されたのだ。
敦典はそうした日本人のよきDNAが残っていることを再確認し、「日本人の心」を伝えていかなければいけないと考えている。
終戦後、日本人はアメリカの豊かさに魅了され、人びとはアメリカを目標にした。そのおかげで廃墟の中から復興し、世界が驚く経済発展を遂げた。ただ、その一方で、「日本人の心」を忘れてしまった人も多いのではないか。
明治・大正時代の日本はどうだったか。1922年に来日したアインシュタインは日本について、「我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」という言葉を残している(『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰』波田野毅著・ごま書房)。
また、イギリス人の女性旅行家で明治時代に5、6回来日したイザベラ・バードは、汽車の中で日本人が清潔でこざっぱりしていたことや、暑そうにしていたバードを団扇であおいでくれた日本人や、箱根の馬子が落とし物を拾ってもお礼を受け取らなかった高潔さを描いている(『バード日本紀行』雄松堂出版、『日本奥地紀行』平凡社)。
幕末に来日したシュリーマンが自著にこう書いている。肩車で川を渡るとき、アジアの別の国で10倍の料金を請求されたことから、日本で2倍の料金ですまそうと交渉したら、定価で結構といわれた(『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社)。
明治初年に学制ができ、尋常小学校や中学校では先生の多くが武士の出身だった。武士は子供のときに論語を習っているから、儒教とともに犠牲・礼儀・質素・倹約を尊ぶ武士道が国民道徳として教えられていた。車中の女性も馬子も川人足も、子供のときにそうした教育を受けて大人になったのだ。
ところが戦後、「戦前の教育はすべて間違いだった」と否定された。その過ちに気づかないといけない。そして、世界から絶賛された日本人の精神性を取り戻さないといけない。そのためには、教育が大事だ。学校で「日本人の心」を子供たちに教える そんな光景が当たり前になることを敦典は願っている。