近江商人
幸一は仙台で生まれるが、近江八幡とゆかりがある。幸一の父の粂次郎は現在の近江八幡市から岡田伝左衛門の三女・信と結婚する。この粂次郎と信の間に1920年9月17日に生まれたのが幸一である。
近江八幡の八幡商業学校に入学する。八幡商業学校は日本初の公立商業学校であり、実践教育に重きを置いた学校であった。そこにはワコールをともに盛り上げていく中村伊一、川口侑雄がいた。
私は生きているように見えるが、実際は生かされているのだ。
幸一はインパール作戦に従軍。圧倒的な弾丸の雨が降り注ぐ中、部隊は無謀な突撃を繰り返す。しかし戦友には当たる弾が、なぜか幸一には当たらなかった。
勝機を逃した日本軍は撤退を始めるが逃げるのも地獄。餓死や病気などの戦闘以外の原因による死亡のほうが多かった。幸一の部隊は、55人中3人だけが生き残る壮絶なものであった。
帰りの船で幸一は悟る。「私は生きているように見えるが、実際は生かされているのだ」。
女性本来の美しさを取り戻さなければならない
戦場から京都に戻った幸一は、衝撃的な風景を見てしまう。護国神社の境内で派手な化粧をした日本人女性が駐留軍と戯れていた。戦死した日本人が祀られている境内で、彼らを殺害した米兵に媚びを売らなければならない。そうしなければ彼女は生きていけない時代だった。
「女性本来の美しさを取り戻さなければならない」
平和とは女性が美しい時代だ。この衝撃的なものを見た日のうちに幸一はアクセサリーで創業する。
「様子をうかがうと、草むらの中に進駐軍の米兵と派手な化粧をした日本女性がいた。一瞬、女性が襲われていると見えたのは錯覚だった。それまで私は日本女性は銃後の花、大和なでしこといった清らかなイメージを抱いてきた。それが、同胞の祀られている境内の一隅で敵兵であった米兵とたわむれている。言いようのないショックに、私は無我夢中で四条辺りまで突っ走った」(『私の履歴書』51-52ページ)
目に見えない世界に商機を見つける
「これからの日本の女性は、間違いなく洋装化する。その際、大事なのはプロポーションだ」
幸一は、目の前にはない不確実な今後の日本で起こることとして、生活環境がスピード化され、簡素化されていくと予測。このことから洋装化するとみた。とはいえ当時の感覚では女性下着への心理的抵抗はずっと高いものだった。
誰もが手掛けようとしない目に見えない世界に、幸一は商機を見つけた。
「そんなもん、こっちは初耳やわさ。ブラジャーやコルセット言うたかて、こう感覚が今と当時は全然違うんやから。男と女が腕を組んで歩いているのをみたら、ビックリした時代のことやからね。その時にブラジャーやコルセットやら言われたら、そら誰だって恥ずかしいよ、僕だって。それがまだ独身時代でしょう。」(『女性を創造するワコール物語』147ページ)幸一を創業時より支えた中村の言葉
「相互信頼」にもとづく経営
会社が大きくなると小さいころにはない問題が起きる。労使の問題だ。
幸一は組合の持ってきた書類に数字を見ないで判を押した。「大丈夫ですか」と経理部長が聞くと、幸一は「わからん」とのみ答えた。幸一の気持ちを理解するかどうかは彼らの対応次第だからだ。
その後、組合は緊急大会を開いた。「満額回答にこたえ、働こう」との方針が採択された。幸一の気持ちが通じた瞬間だ。
以降ワコールは全社一丸となり、「相互信頼」の姿勢が打ち出される。現在の海外展開でもこの「相互信頼」に
基づき、現地の人に大幅な権限を託している。
「50年計画」50年で世界制覇する
20世紀のまんなか1950年がやってきた。幸一の手掛ける商品は売れないままであった。そんな状況であっても幸一は「半世紀の後には世界を制覇してやる」と見据えていた。
この計画は最初の10年、つまり1950年代は国内市場を育て、次の60年代は国内市場で確固たる地位につくというものだ。次の70、80年代で国際市場に展開し、90年代で世界制覇という壮大なものであった。
幸一には、「日本再建のために生かされた」という悟りがあった。それが50年計画という壮大な計画を実行していく力になっていた。
「親父のすごかったところは、ワコールがまだ海のものとも山のものとも分からなかったときに五十年計画を立てたことです。それこそ、社員も誰も信じていなかった時期だったと思うんです。五十年も前から、『世界のワコール』ということを言っていたわけですが、十年ごとに形にしてきました。」(「独占告白 わが父、塚本幸一」『経済界』1998年8月25日号、39ページ)
後継者をつくる
1977年に10年後を見据えた後継社長についての人事を発表した。次の社長は幸一の息子の能交(よしかた)であった。当然「私情を交えた」との批判もあった。当時、幸一は「どうなるかは見てもらうしかない」といった心情であった。
幸一は能交が経営者となったときに黙認に徹していた。そのなかで能交は多くの経験を積み、ワコールのリーダーとなっていた。
写真提供:ワコール
【プロフィール】
塚本 幸一(つかもと・こういち)1920年生まれ。
百貨店の友人が持ち込んだブラ・パットをヒントにブラジャーの開発・研究に取り組み、女性の下着文化をリードした。京都商工会議所会頭としても活躍。