日本人の美と健康を守りたい


 福原は銀座七丁目あたりに日本初の「洋風調剤薬局」資生堂を開業した。さらに薬局から化粧品、生命保険に活動を拡げ、現在の「資生堂」への飛躍基盤を整備した。福原は『日本人の美と健康を守りたい』と訴え、終生それを追い続けた男である。
 当時は漢方薬が主流で中には粗悪なものも出回っていた。福原は「西洋医学に基づく良質な薬品を提供し、人々の健康に尽くしたいと」深く心に誓っていた。
 「資生堂」というのは『易経』の「至哉坤元 万物資生、万順承天」からとったといわれる。つまり「地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれる」という意味だ。資生堂は古くから“女性を活用する”ことに力を入れてきた。これは福原が欧米視察で見聞し、先鞭をつけた。女性の活用は新鮮に映り大きな話題となる。女性達も福原の期待に応えて資生堂の発展に心をくだき頑張ったという。

 「淡雪の如く泡立ちて、肌滑らかに薄緑。名もなつかしき資生堂の、たぐひまれなる石鹸は、ほのかに匂ふ春の日の奥山桜のそれなれや」

これは野口雨情の「石鹸小唄」の詩である。大正・昭和の時代に入ってからも資生堂の社名が表れる数々の文芸作品が出ている。このように資生堂は日本を代表するもっとも“華やいだ顔”だったと言えよう。


【プロフィール】
福原 有信(ふくはら・ありのぶ)1848年生まれ。
日本人の健康と美を願い、洋式の薬・化粧品そして食文化(現在の資生堂パーラー)などの新しい時代文化の発信基地としての資生堂を目指し今日の基礎をつくりあげた。