協力一致して優良会社に仕上げ、われわれが将来、この会社の社員であることが自らの誇りとなるようにしたい


川上は住友電工を経て、四十二歳のとき、請われて日本楽器社長に就任した。倒産寸前の日本楽器に飛び込むことは『火の中へ薪を背負っていくに等しい』」と友人からは反対される。しかし彼は東大卒業時に自ら課した次のような信念に従ってあえて困難な道を選んだ。

一、正義をあくまで貫き通すこと
一、自ら世の塩となること
一、義務を通じて国家社会に貢献すること
一、自己を完成するとともに後進の人生の発展を助けること
一、日本の文化水準を引き上げること
一、社会的経綸をもつこと

 「日本楽器の仕事は単に営利だけのものではない。浜松や静岡県の特殊産業として、国家的にもなくてはならぬ事業である。私は地元出身の人間としてわが身を犠牲にしても再建を引き受ける」と語っている。
 筆者は、川上の息子・源一が初代社長となったヤマハ発動機のコンサルタントで浜松に通ったが、地元の発展のために「さあやらまいか」を合言葉にがんばろうとする社員の力強い働きの中に川上の残したヤマハスピリットを肌で感じたものである。


【プロフィール】
川上 嘉市(かわかみ・かいち)1885年生まれ。
川上はヤマハの三代目社長であるが、総合メーカーとしての世界のヤマハを確立したという意味において、実質創業者と見なされている。