およそ人間の地位や名誉、財産ほどくだらないものはない
わしは無一物で生まれてきたのだから、
無一物で死ぬのが理想だ
生命保険が日本人になじみが薄い時代、矢野は健康、人災、簡易などあらゆる保険システムの原型をつくりあげ、今日の国民総保険化時代への第一歩を開いた。
第一生命は従来の同業他社とは全く内容が異なり、独自性に貫かれていた。「死ななければ損」式の生命保険観に対し、「長命無損害」を表した。加入者への配当金を契約年数に比例して配分するなど、現代とほぼ同じシステムを生み出した。
また、死亡率の統計から日本人向きの生命表を作成、それを基礎に合理的な保険料を算出した。このような相互会社方式について矢野は、「同志が集まり、家を借り、社員を雇い、生活用品を買い、各人が実費負担をするようなもの」と言っている。
矢野の博愛的相互依存の発想は、少年時代から愛読し続けてきた儒教的道徳観に基づいているところが素晴らしい。
医師の一人息子であった矢野は、死の病を治療するのも医者なら、死そのものを尊い金銭的価値で補うのも「医者のうち」と考えたようだ。矢野は人生の大部分を独学による保険業の研鑽に打ち込んだ。矢野のことを「生涯、書生堅気をもちつづけた実業家」と語る人も多い。
【プロフィール】
矢野 恒太(やの・つねた)1865年生まれ。
外国のものまね保険から日本的な保険制度をつくり出し、日本初の相互会社「第一生命保険」を設立した男。