三島 海雲
1878(明治11年)〜1974(昭和49年)
『明治・大正・昭和と「国利民福」志のもと走りぬく』

大阪は箕面の寺の子として生まれ、13歳で得度し、西本願寺文学寮で学ぶ。
25歳の時先輩の勧めで中国に渡り現地で様々な事業を試みる。その後、日露戦争の”軍馬調達”のため内モンゴルに赴いた時、遊牧民の生活の中に息づく乳酸菌の効用を知る。
三島自身酸乳と酸っぱいクリーム(ジョウヒ)を愛飲し、自分自身も体の調子がよくなることを実感する。
その体験を発端に、帰国後国民の体力に益する食品の開発を企図する。そしてついに、大正5年「醍醐味」の商品名で発酵クリームを発売するが注文殺到したため製造が追いつかず数ヵ月で販売中止となり、『成功の失敗』を味わう。その後乳酸菌や発酵の研究を重ね、大正8年苦心に苦心を重ねた末、乳酸菌飲料「カルピス」を誕生させる。


「国利民福」という人生観を実行に移し、大きな仕事を手がけた内モンゴルで乳酸菌飲料のヒントを見つけた。内モンゴルでであった乳酸菌の発酵でできたすっぱい牛乳をもとに、国民の体位向上に役立つ食品の開発に取り組み、その結果、乳酸菌飲料「カルピス」が生まれたのである。
この間、資金的には行き詰ることもあったが、三島の確たる信念に基づいた事業に賛同した多くの財界人から資金的支援を受けた。また、三島はジャーナリスト、学者、政治家などあらゆる方面の一流人物に支持者を得ていた。何事にも熱心に取り組む姿勢や誠意あるその人柄は、事業の発展とともに多くの知己友人との信頼関係という、目に見えない大きな財産も築いた。


私心を離れよ。そして大志を持て


三島海雲の若い人たちへのメッセージ
「人間である限り欲望のない者はいない。だからこそ欲望は小さな私欲ではなく、もっと大きく、国家、社会の利福をもたらすような欲望を持て。」

「有意義なことを始めたら、必ず金のことから食べることの心配はいらなくなるものだ。サラリーマンになって給料の少ないなどに汲々とするな。そんな心がけではろくなことはできない。自分の生活がどうとかいう卑屈な考えは捨てよ。若い人は大志を抱き、理想に向かってまっしぐらに努力することが大切だ。」


三島海雲が生涯貫いた理念、「天行健」


「天行健」とは、 「天行健、君子以自彊不息」(天行は健なり、君子みずからつとめてやまず)は「易経」にあり、「天体の運行を観測すると、何千万年の昔から寸秒の違いもなく動いている。賢者は天体が休まず運行しているように規則的に動く。我々も時間を守り規則正しい生活をしていれば必ず仕事はうまくいき、身体は健康になる」という意味。

三島は、何事においても全力で努力し、正直に生きることを自分に課した。
「意は毘盧の頂上を踏み、行は童子の足元を拝す。」も好んでつかった「毘盧」とは、東大寺の本尊大仏さまであり毘盧遮那仏といって、宇宙そのものを表している。
三島は、これを処世訓の一つとして、「志は高く、姿勢は低く」を実現した。


三島海雲の処世訓、崔子玉の「座右銘」


『人の短所について、とやかく言うべきではない。自分に長所があろうとも口外すべきではない。人に恩恵を施しても、黙して忘れるべきだ。しかし、ひとから施しを受けたことは、終世その恩義を覚えていなければならない。ただひたすら「仁」(正直と他人を思いやる心)ということを自分の大きなよりどころとし、これに照らしてみてよく考えたうえで行動を起こすべきである。』

三島は自らの処世訓を、六世紀に中国梁時代の文人・蕭統(しょうとう)が編纂した『文選』のなかから学んだ。


「カルピス」の意味は


「カルピス」の商品名は、カルシウムの「カル」と、サンスクリット語の“サルピス”の「ピス」を組み合わせた。サルピスは仏教で五味の一つを指す言葉である。最高位の味(醍醐の味)を意味する“サルピルマンダ”から二文字とると、「カルピル」になるが、歯切れが悪いため、三島は「カルピス」と命名したいと考えた。常にその道の一流の専門家の意見を聞くことにしている三島は、命名についても音声学の権威・山田耕作やサンスクリットの権威である渡辺海旭にも相談した。


【プロフィール】
三島 海雲(みしま・かいうん)1878年生まれ。
モンゴル人の体力があるのはあの〝白い汁〟を飲んでいるからだと思い皮袋に入れ持ち帰り、「国利民福」の精神のもと八年半の歳月をかけてカルピスを開発する。